⚠️この記事にはアニメとして制作された物語シリーズ、傷物語及び化物語から終物語(下)までの重大なネタバレが含まれています。
未視聴での当記事の閲覧は作品の面白さを大きく損なう可能性がある為、可能な限り御遠慮下さい。
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皆さん、物語シリーズ楽しんでますか。
自分は最近穴場の古本屋を見つけて、前々から手元に置いておきたかった愚物語と読めてなかった撫物語を買いました。
シャフトが制作していたりOPが沢山あったり、西尾維新が原作していたりとやたら入口が多いイメージが自分の中ではあるんですけれども(アニメ前提で話進めてすいません)。
そうなるとやっぱりね…
ネタバレがね……
この作品群って特にアニメシリーズとしては結構長いですから。
そりゃ見終わるまでに一度や二度はネタバレっぽい記事に直面したり、見終わった人が描いてる魅力的なイラストを前にしたりして、ふとそれらを見てみたくなってしまう瞬間があったりするじゃないですか。
キャラクター名や公式サイトを検索する中で画像一覧から避けようのないネタバレを受けてしまう経験ってあるじゃないですか。
まだ作品を見ようとする意欲が全く無くて、作品自体への興味も全く無い頃に友人から話を聞かされたりする事って往々にして起こりうるじゃないですか。
直接的な経緯はもう忘れてしまってるんですが、ともかく事前に知ってしまってたんですよ。終物語のかなり根っこの部分のオチ。
具体的に言うと八九寺真宵が地獄から助け出されて神様になる事と忍野扇がくらやみに飲み込まれそうになる中で忍野メメが助けに来てくれる事を知ってしまってまして。
正確には知ってたと云うより昔どこかで話として聞いてたのを覚えてたって感じで。
近い場面になると記憶の奥にあった情報が浮上してきて次の展開がわかっちゃう状態になっちゃって。
だからどうしても知らない情報が出てきて驚いた!って楽しみが無くなった分、終物語(下)のオチに対しての腑に落ちなさを悶々と抱えてたんですよ。
特に阿良々木くんが扇ちゃんを助ける、という行為が自分の中で引っ掛かっていました。
でもこの度解決しました。
そして『阿良々木暦が忍野扇を助けた』事に含まれている文脈みたいな物に気付いたので、今回はそれについて考察?していこうと思います。
◤忍野扇を庇った意味
結論から言うと、忍野扇を助けたのはキスショットを助けた事との対比になっているんじゃないかなって意見です。
少し言い訳というか、予防線張ります。
多分気付けてる人は見てる最中にも気付いてた事だと思うんですよ。
ただ公式で物語シリーズを見る順番って決まってないじゃないですか。
結構見る側に任せてる部分があるというか。
だからアニメ放映順を意識しちゃって傷物語を最後に見ちゃったんですよね。
別にそれ自体は悪い訳では無いけど、そのせいもあって気付くのが今更になってしまいました。
すいません言い訳終わりです。
詳しく掘り下げるならば、
忍野扇を助けた事は物語の構造上強い意味を持った行為だったのではないか、というのが今回のテーマとなります。
初めておうぎダークを見た時は自分を助け出すという意味が乗ってるのかなぁ、とは思っていたのですが「それだと阿良々木くんが変わってない事にならないか?」という部分が引っ掛かってました。
けれどキスショットを助けた事とは決定的な差があるような気がしています。上手く言い表せるか不安なんですが。
キスショットを助けた時の阿良々木くんはその場から逃げ去った挙句に戻って来て助けてしまう、つまり自分の理性より根源的な人間性に身を任せた行動をしてしまいました。
それは最終的に人殺しへの加担、そしてキスショットの存在性すらも押し込め捻じ曲げてしまう結果にも繋がっています。
その状況を忍野扇を助けた事と比較すると、共通点と相違点が見えて来ます。
まず共通点は、死ぬつもりでいたのに結果助かってしまっている事。そして困ってる人を見過ごせず本能的に体が動いてしまっている事。
最初におうぎダークを見た時は共通点の方に注目したから阿良々木暦が一年間を通して変わっていないように見えたのかもしれません。
けれど傷物語時点との決定的な差は、前述した通りあるように感じます。
恐らくその理由は大きく分けて二つあり、一つは阿良々木くんが自分の行動に覚悟と理由を付けれるようになっている事。
人を思わず助けてしまう部分は変わっていないが、彼なりの考えや方向性が一年間の中で定まった気がします。
そしてもう一つは、両者の行為が能動的だったかどうかにあるのではないか。
自分は、阿良々木くんが扇ちゃんを助けたのはあくまで能動的だと思っています。
キスショットは助けてくれと懇願していたけれど忍野扇は自分が消えるのが正しいと主張していました。
その主張の正当性に納得した上で阿良々木くんは助けたのです。
作中では「今まで助けて来た皆に想われている自分を助けないのはおかしい」、要するに自己犠牲への反逆として扇ちゃんを助けようとしました。が、その行動の持つ意味はそれだけではないのではないか。
自分は、あの行動は阿良々木暦が自分と向き合った結果取った行動な気がしてならないのです。
『困っている人(存在)を助けずにはいられない』。そんな自身の根源的な性質に嫌気が差して生まれたのが自己批判精神である忍野扇だったけれど、その性質すら良しとしたから忍野扇を助けた。
自身の心に整理を付けられたから、自身の一部である忍野扇を助ける行為に走った。
存在としてイコールである忍野扇の物理的な救済、それと自身に根付く根源的な性質の受容。
つまり二重の意味で自分を助けた、というのがこの行為に乗っている最大の意味なのではないでしょうか。
そしてしばしば物語シリーズの中では、怪異絡みの事件に巻き込まれるのは巻き込まれた側の精神性に責任があるように描写されます。
自身の精神を異物の様に扱ってしまうから怪異現象が起きてしまう。
そんな自身の複雑な心情を排していくのではなく受け入れていく。それこそが終物語まで描いてきた事であり、シリーズの根幹を為すテーマなのかもしれないと今回の記事を書くに辺り感じました。
ここまでご清聴ありがとうございました。
そして長々と語ったこの記事と似たような内容が終物語のwebサイト上のあとがたりで語られています。
そうなんです。この内容、公式上から八割方は出てるんです。
公式が最大手というか、声優さん方の理解が深過ぎるので興味があれば是非。
ファイナルシーズン周りは気になってる事も多いのでまた記事にするかもしれません。
シン・ウルトラマンの感想は全く目処が立っていないので暫しお待ちください、本当にすいません。
それではまた。